山本松代

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大森(山本)松代、朝日新聞社 『アサヒグラフ』1948年12月15日号

山本 松代(やまもと まつよ、1909年-1999年8月10日)、旧姓で大森 松代(おおもり まつよ)は、日本の官僚。1931年に東京女子大学を卒業した後、1935年に渡米し、ワシントン州立大学家政学を専攻。1938年の帰国後、東京YWCA附属駿河台女学院の家政学部主任となる。戦後、文部省で家庭科教育の創設に携わる。1948年にGHQの推薦により農林省農業改良局普及部生活改善課の初代課長となり、1965年まで17年間にわたり農村生活の改善事業を推進。同年から3年間、国連FAO本部栄養局生活部の教育・訓練課長を務めた。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

戦前の職歴[編集]

シンガポールでは、図書館で英語の書籍(主に英国の行政関係の文献)の翻訳をし、またマレー人・アラブ人向けの日本語学校の教師をした[1]。本人は、「文化活動」のために赴任したが、「文化活動」的なものは何もなく、翻訳はイギリスの行政関係の文献ばかりで面白くなかった、日本語教育は、マレー人の熱意がなく、出席者がほとんどいなくなってしまった、として、「昭南」時代の生活を「空白の時期」と回想している[6]
徳川の日記には、大森と土田が1943年にインド独立工作をしていた光機関を支援したことなど(下記)が記されているが、本人は具体的なことは覚えていないと述懐している[7]
  • 1943年1月26日に大森と土田が印度独立連盟に渡辺ひろのと手伝いに行った。…記憶にない。
  • 同年4月27日に土田と大森が光機関に招かれてお茶をしに行った。…岩畔豪雄のことは覚えているが、政治的な話をした記憶はない。
  • 同年7月4日に大森と土田が軍政部の女子コーラスで「昭南」に慰問に来た藤山一郎ジョホール病院の慰問に行った。…覚えている。
  • 同年10月21日「軍政監に時局緊迫につきて相談する。大森を光機関にやる事につきて話す。帰りて美代子の決心をきく」…具体的なことは覚えていない。
大森は土田よりも早い時期に帰国し、土田が昭南博物館に隣接する憲兵司令部から聞こえてきたと証言している呻き声は聞いていなかった[8]

戦後の職歴[編集]

  • 1945年ないし1948年、文部省の図書編集室に嘱託として勤務し、新しい家庭科教育の創設のための、指導要領の作成ないし教科書の編纂にあたる[9]
  • 同年、GHQ婦人指導部からの推薦により、文部省から農林省へ招請され、農業改良局普及部生活改善課の初代課長となる[10]
    • 大森は、戦前の国防婦人会に由来し、戦後再結成された婦人会組織を通じた政策の推進には否定的で[11]、同課では、家政学の専門知識のある高学歴の若年の女性を幹部に登用し、資格試験を実施して、農業改良普及員に家政学に関する専門知識を持つ若い人材を登用した[12]
    • 赴任後まもなく結婚し、山本姓となった[13]
  • 以後同課長として1965年まで17年間生活改善運動を推進[14]
  • 1965年、農林省農政局参事官として、ローマ国連FAO本部栄養局生活部に出向。1968年までFAOの教育・訓練課長。[15]
  • 1968年に日本に帰国したが、その後もFAOの顧問を務めた[16]
  • 1969年、中京女子大学家政学部教授[17]
  • その後も、生活改善実行グループの支援団体だった農山漁家生活改善研究会の会長として、国内外を問わず農家の生活問題に関与した[18]
  • 1974年にはFAOから、食料の確保と持続的な発展のために重要な貢献をした女性に贈られるセレス・メダル(Ceres Medal)を贈られた[16]
  • 1999年8月10日に日本で死去、享年90。死因は不明。[16]

家族[編集]

著書[編集]

  • 山本松代・永沼有・安孫子智恵『生活設計の理論と実際-生活水準・生活診断・生活設計』光生館、1970年、全国書誌番号:71000659

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 小田部(1988)p.164
  2. 市田(1995)p.17
  3. Lewiston Tribune(1999)、小田部(1988)p.164
  4. 市田(1995)p.17
  5. Lewiston Tribune(1999)、市田(1995)p.17、小田部(1988)p.164
  6. 小田部(1988)pp.164,166
  7. 小田部(1988)p.165
  8. 小田部(1988)pp.165-166。(編注)呻き声が1943年10月10日の双十節事件以降に聞こえるようになったとすれば、大森は同月以前に帰国したのかもしれない。
  9. Lewiston Tribune(1999)では1945年、市田(1995)pp.7,17では1948年。
  10. 中間・内田・伊藤(2008)p.14、市田(1995)pp.7-8
  11. 中間・内田・伊藤(2008)p.14
  12. 市田(1995)pp.8-11
  13. 中間・内田・伊藤(2008)p.20注17
  14. 中間・内田・伊藤(2008)p.20注17、市田(1995)p.16
  15. Lewiston Tribune(1999)、市田(1995)pp.16,17
  16. 16.0 16.1 16.2 Lewiston Tribune(1999)
  17. 市田(1995)p.17
  18. 市田(1995)p.16
  19. 中野(1977)p.208

参考文献[編集]