「マラヤ人民抗日軍」の版間の差分

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'''マラヤ人民抗日軍'''(マラヤじんみんこうにちぐん、{{lang-en|Malayan People's Anti-Japanese Army: MPAJA}})は、[[1942年]]頃、日本軍に占領された[[マレー半島]]で、[[英領マラヤ|英植民地]]政府によって刑務所から解放され、軍事訓練を受けた[[マラヤ共産党]]の党員が、一般の中国系住民を糾合して組織したゲリラ部隊。'''三つ星軍'''とも。[[太平洋戦争]]中、[[ペラ州|ペラ]]、[[ジョホール州|ジョホール]]、[[スランゴール州|スランゴール]]の各州を中心に抗日ゲリラ活動を展開し、中国系住民・共産党系[[シンパ]]の支援や[[英軍]] {{仮リンク|136部隊|en|Force 136}}の指導・支援を受けて勢力を拡大、1945年の終戦時には隊員約7,000名の規模となっていた。終戦後は英植民地政府およびその後を受けた[[マレーシア]]政府と対立した。<ref>この記事の主な出典は、{{Harvtxt|フォーラム|1998|p=685}}および{{Harvtxt|本田|1988|p=53-55}}</ref>
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'''マラヤ人民抗日軍'''(マラヤじんみんこうにちぐん、{{lang-en|Malayan People's Anti-Japanese Army:'''MPAJA'''}})は、[[1942年]]頃、日本軍に占領された[[マレー半島]]で、[[英領マラヤ|英植民地]]政府によって刑務所から解放され、軍事訓練を受けた[[マラヤ共産党]]の党員が、一般の中国系住民を糾合して組織したゲリラ部隊。'''三つ星軍'''とも。[[太平洋戦争]]中、[[ペラ州|ペラ]]、[[ジョホール州|ジョホール]]、[[スランゴール州|スランゴール]]の各州を中心に抗日ゲリラ活動を展開し、中国系住民・共産党系[[シンパ]]の支援や[[英軍]] {{仮リンク|136部隊|en|Force 136}}の指導・支援を受けて勢力を拡大、1945年の終戦時には隊員約7,000名の規模となっていた。終戦後は英植民地政府およびその後を受けた[[マレーシア]]政府と対立した。
  
 
== 結成 ==
 
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1941年12月、[[マレー作戦|日本軍がマレー半島に侵攻]]すると、[[英領マラヤ|英植民地]]政府は、[[チャンギ刑務所|チャンギー刑務所]]に収監していた約200人の[[マラヤ共産党]]員を解放し、[[英軍101特別訓練学校]]で約1週間ゲリラ戦の訓練を受けさせた後、日本軍の後方へ潜伏させた{{Sfn|フォーラム|1998|p=685}}{{Sfn|本田|1988|p=54}}。彼らは、非共産系の一般中国系住民も糾合して、'''マラヤ人民抗日軍'''(Malayan People's Anti-Japanese Army、略称:MPAJA)に成長していった{{Sfn|本田|1988|p=54}}。
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1941年12月、[[マレー作戦|日本軍がマレー半島に侵攻]]すると、[[英領マラヤ|英植民地]]政府は、[[チャンギ刑務所|チャンギー刑務所]]に収監していた約200人の[[マラヤ共産党]]員を解放し、[[英軍101特別訓練学校]]で約1週間ゲリラ戦の訓練を受けさせた後、日本軍の後方へ潜伏させた{{Sfn|フォーラム|1998|p=685}}{{Sfn|本田|1988|p=54}}。彼らは、非共産系の一般中国系住民も糾合して、'''マラヤ人民抗日軍'''(Malayan People's Anti-Japanese Army、略称:'''MPAJA''')に成長していった{{Sfn|本田|1988|p=54}}。
  
 
[[中国人]]、[[マレー人]]、[[インド人]]を表す三つ星のバッジを付けていたため、「'''三つ星軍'''」とも呼ばれた{{Sfn|本田|1988|p=54}}。
 
[[中国人]]、[[マレー人]]、[[インド人]]を表す三つ星のバッジを付けていたため、「'''三つ星軍'''」とも呼ばれた{{Sfn|本田|1988|p=54}}。
  
 
== 戦時中の活動 ==
 
== 戦時中の活動 ==
[[ペラ州|ペラ]]、[[ジョホール州|ジョホール]]、[[スランゴール州|スランゴール]]の各州で最も活発に抗日ゲリラ戦を展開した{{Sfn|フォーラム|1998|p=685}}。抗日軍の資料によると、日本軍の占領中、340回戦闘が行われ、約5,500名の敵を死傷させたとされており、[[第29軍 (日本軍)|日本軍(第29軍)]]の統計によると、損害は将兵約600名、警官(多くはマレー人)約2,000名、抗日軍に与えた損害は約2,900名とされている{{Sfn|フォーラム|1998|p=685}}。
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MPAJAは、[[ペラ州|ペラ]]、[[ジョホール州|ジョホール]]、[[スランゴール州|スランゴール]]の各州で最も活発に抗日ゲリラ戦を展開した{{Sfn|フォーラム|1998|p=685}}。抗日軍の資料によると、日本軍の占領中、340回戦闘が行われ、約5,500名の敵を死傷させたとされており、[[第29軍 (日本軍)|日本軍(第29軍)]]の統計によると、損害は将兵約600名、警官(多くはマレー人)約2,000名、抗日軍に与えた損害は約2,900名とされている{{Sfn|フォーラム|1998|p=685}}。
  
 
MPAJAは山中に潜伏しており、食糧その他の補給はジャングルの縁に居住している中国系の農民や共産党員・[[シンパ]]の支援に頼っていた{{Sfn|本田|1988|p=54}}。
 
MPAJAは山中に潜伏しており、食糧その他の補給はジャングルの縁に居住している中国系の農民や共産党員・[[シンパ]]の支援に頼っていた{{Sfn|本田|1988|p=54}}。
  
また[[マレー半島]]の山中には、MPAJA以外に、少数の[[英軍]][[野戦保安隊]]{{仮リンク|136部隊|en|Force 136}}が潜伏しており、MPAJAを指導し、空輸によって兵器弾薬などの支援を行った<ref>{{Harvtxt|本田|1988|p=54}}。136部隊は1944年12月以降、飛行機による落下傘降下・物資投下により急激に増強された(同)</ref>。
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また[[マレー半島]]の山中には、MPAJA以外に、少数の[[英軍]][[野戦保安隊]]{{仮リンク|136部隊|en|Force 136}}が潜伏しており、MPAJAを指導し、空輸によって兵器弾薬などの支援を行った<ref>{{Harvtxt|本田|1988|p=54}}。136部隊は1944年12月以降、飛行機による落下傘降下・物資投下により急激に増強された(同)。</ref>。
  
 
終戦時には、MPAJAの勢力は、8個独立隊(大隊)約7,000名となっていたとされる<ref>編成は{{Harvtxt|フォーラム|1998|p=685}}による。同書によると、1945年12月の復員時の総兵力は6,800名。</ref>{{Sfn|本田|1988|p=54}}。
 
終戦時には、MPAJAの勢力は、8個独立隊(大隊)約7,000名となっていたとされる<ref>編成は{{Harvtxt|フォーラム|1998|p=685}}による。同書によると、1945年12月の復員時の総兵力は6,800名。</ref>{{Sfn|本田|1988|p=54}}。
  
 
== 戦後 ==
 
== 戦後 ==
1945年8月に日本が無条件降伏し[[第2次世界大戦]]が終結した後、MPAJAは、英植民地政府およびその後を受けた[[マレーシア]]政府と対立、ゲリラ闘争を継続することになった{{Sfn|本田|1988|p=54}}。
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1945年8月に日本が無条件降伏し、[[第2次世界大戦]]が終結した後、MPAJAは、英植民地政府およびその後を受けた[[マレーシア]]政府と対立、ゲリラ闘争を継続することになった{{Sfn|本田|1988|p=54}}。
  
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* {{Aya|フォーラム|year=1998}} 「日本の英領マラヤ・シンガポール占領期史料調査」フォーラム『日本の英領マラヤ・シンガポール占領:1941~45年:インタビュー記録』〈南方軍政関係史料33〉龍溪書舎、ISBN 4844794809
* {{Cite book|和書|last = 本田|year = 1988|first = 忠尚|title = 茨木機関潜行記|publisher = 図書出版社|date = 1988-2|ref= harv}}
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* {{Aya|本田|year=1988}} 本田忠尚『茨木機関潜行記』図書出版社、{{JPNO|88020883}}
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2020年5月4日 (月) 19:40時点における最新版

マラヤ人民抗日軍(マラヤじんみんこうにちぐん、英語Malayan People's Anti-Japanese Army:MPAJA)は、1942年頃、日本軍に占領されたマレー半島で、英植民地政府によって刑務所から解放され、軍事訓練を受けたマラヤ共産党の党員が、一般の中国系住民を糾合して組織したゲリラ部隊。三つ星軍とも。太平洋戦争中、ペラジョホールスランゴールの各州を中心に抗日ゲリラ活動を展開し、中国系住民・共産党系シンパの支援や英軍 136部隊English版の指導・支援を受けて勢力を拡大、1945年の終戦時には隊員約7,000名の規模となっていた。終戦後は英植民地政府およびその後を受けたマレーシア政府と対立した。

結成[編集]

1941年12月、日本軍がマレー半島に侵攻すると、英植民地政府は、チャンギー刑務所に収監していた約200人のマラヤ共産党員を解放し、英軍101特別訓練学校で約1週間ゲリラ戦の訓練を受けさせた後、日本軍の後方へ潜伏させた[1][2]。彼らは、非共産系の一般中国系住民も糾合して、マラヤ人民抗日軍(Malayan People's Anti-Japanese Army、略称:MPAJA)に成長していった[2]

中国人マレー人インド人を表す三つ星のバッジを付けていたため、「三つ星軍」とも呼ばれた[2]

戦時中の活動[編集]

MPAJAは、ペラジョホールスランゴールの各州で最も活発に抗日ゲリラ戦を展開した[1]。抗日軍の資料によると、日本軍の占領中、340回戦闘が行われ、約5,500名の敵を死傷させたとされており、日本軍(第29軍)の統計によると、損害は将兵約600名、警官(多くはマレー人)約2,000名、抗日軍に与えた損害は約2,900名とされている[1]

MPAJAは山中に潜伏しており、食糧その他の補給はジャングルの縁に居住している中国系の農民や共産党員・シンパの支援に頼っていた[2]

またマレー半島の山中には、MPAJA以外に、少数の英軍野戦保安隊136部隊English版が潜伏しており、MPAJAを指導し、空輸によって兵器弾薬などの支援を行った[3]

終戦時には、MPAJAの勢力は、8個独立隊(大隊)約7,000名となっていたとされる[4][2]

戦後[編集]

1945年8月に日本が無条件降伏し、第2次世界大戦が終結した後、MPAJAは、英植民地政府およびその後を受けたマレーシア政府と対立、ゲリラ闘争を継続することになった[2]

付録[編集]

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 フォーラム 1998 685
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 本田 1988 54
  3. 本田 (1988 54)。136部隊は1944年12月以降、飛行機による落下傘降下・物資投下により急激に増強された(同)。
  4. 編成はフォーラム (1998 685)による。同書によると、1945年12月の復員時の総兵力は6,800名。

参考文献[編集]

  • フォーラム (1998) 「日本の英領マラヤ・シンガポール占領期史料調査」フォーラム『日本の英領マラヤ・シンガポール占領:1941~45年:インタビュー記録』〈南方軍政関係史料33〉龍溪書舎、ISBN 4844794809
  • 本田 (1988) 本田忠尚『茨木機関潜行記』図書出版社、JPNO 88020883